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東京自由保育園のバッジ

 投稿者:火の鳥  投稿日:2012年12月 7日(金)15時57分4秒
編集済
  当時のバッジが二個見つかりました。
画像が不鮮明なので、あとで撮り直したいと思いますが、
とりあえず載せました。

とおきょおじゆうほいくえん、と書かれています。
ぼくらは毎日、このバッジを胸に付けて、園に通っていました。
これらは実際、当時ぼくが付けていたバッジです。
 
 

近況報告の補足

 投稿者:火の鳥  投稿日:2011年10月 6日(木)11時09分44秒
編集済
  この門を入った右手に、木造平屋の建物がありました、と書きましたが、
思い出したことが二つあるので、忘れぬうちに書いておきます。

一つはこの建物の裏にコンクリートの塀があり、その塀のすぐ向こうが
金さん(という在日朝鮮人)の経営する小さなゴム工場でした。

もう一つは、「この門」を入ったすぐのところで、ぼくは酷い目に遭ったのです。
保育園には当時、保護者であったか、園の関係者であったか、覚えていないのですが、
顔見知りの「おじさん」がいつもうろうろしており、かれは年中、酔っぱらっていた。

ある雨の日、ぼくはその「おじさんに」両手で持ち上げられ、ぬかるんだ地面に
叩き付けられたのです。
その後、どんな状況になったのか、それはまったく覚えていないけれど、とにかく
高く持ち上げられ、地面に落とされたことだけははっきり覚えています。

想像するに、子どものぼくは、おそらく酔っぱらいの「おじさん」に対し、なにか
気に喰わないことを言ってからかったのかもしれない。

それだけのことですが、そういう怖い経験もありました。

もう二つ、いま思い出したことがあります。
園での幻灯会のことです。これは父の残した資料の中に、なにか関連するものがあった
記憶があるので、それが出て来たときに詳しく書きます。

もう一つは、クリスマス会の飾り付け用品を買いに、庄司先生に連れられ、
O君とT子ちゃんと一緒に、都心(?)に出た(夜の)思い出についてです。
これも別の機会に書きます。
 

近況報告、その他

 投稿者:火の鳥  投稿日:2011年 9月27日(火)14時49分26秒
編集済
  老母の介護と仕事に追われ、住居と別の場所に保管してある
資料をとりだす時間的余裕がありません。

保管資料には...
当時の自由保育園の写真多数、昭和22年代初めの保育園資料
(これは十数年前に、保育園に行って閲覧・コピーしてきたもの)
など、貴重な資料が含まれています。

また、写真には、私の父母がもっていたものの他にも、
私が生前の庄司豊子先生から直接戴いた写真が含まれています。
いずれ公開します。ときおりこの掲示板に目を向けて下さい。

写真は昨年撮影の、現在の保育園。この駐輪スペースの場所が、
下の画像、母子の歩いている辺りです。

この門を入った右手に、木造平屋の建物がありました。
記憶に間違いがなければ、着任して間もなく、河田朝子先生が
挨拶されたのもこの建物でのことでした。

また、建物の奥にはダルマストーブが置いてあり、冬になると、
みなでストーブを囲んで、歌をうたったりしました。

ロシア民謡の赤いサラファンを、名前は覚えていませんが、若い
保母さんが歌っているのを聴いたのもこの建物の中でした。
 

卒園証書・バッジ

 投稿者:火の鳥  投稿日:2011年 4月 3日(日)13時26分47秒
編集済
  忘れないうちに書いておきます。
出て来たらここに載せますが、当時の卒園証書は、谷川正太郎園長
直筆のものでした。
卒園園児一人ひとりに筆で書いて贈られました。
わたしの卒園証書には、じつは「火の鳥」が出てくるのです。

東京自由保育園にはバッジがありました。
丸くて、やや大きめ、赤味がかったチョコレート色で、
翼を広げた鳩がデザインされていました。
これもしまってありますので、いずれ画像を載せる予定です。
 

マック

 投稿者:火の鳥  投稿日:2011年 4月 1日(金)16時50分2秒
編集済
  マック...。なつかしい名前です。マックとは、保育園で飼っていた雑種犬の名前で、
ぼくら子どもたちの、愛すべきともだちでした。
名前の由来はむろん、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥。
かつて父から聞いた話では、マッカーサーを公然と呼び捨てにするために、
”谷”さん(谷川正太郎園長)らによって付けられたとのこと。
おそらく事実でしょう。犬にはとんだ迷惑だったかも知れませんが...
あの時代、2・1ゼネスト中止命令などで憤懣遣る方無しの大人たちには、
マック!と呼び捨てすることで、多少の鬱憤を晴らすことができたのかも、と想像します。

思い出。マックにぼくら園児たちは乗ることができたのです!
マックは逞しく、ぼくら園児はとても小さかったからでしょうか...
保育園の園庭の真ん中辺りに、一本のプラタナスの樹が伸びていて、ぼくらはマックにしがみつき、
樹の周囲を駈け回ったものでした。
昭和25年の火事ー園の全焼ーにも生き延びたマックが死んだのはいつのことだったか...
お墓はぼくと、仲良しの在日朝鮮人のMちゃんらが中心となって作りました。
埋葬場所はジャングルジムの後ろ、道路側にあった細長い花壇の隅でした。

画像は『東京自由保育園の四〇年』(昭61)から採った、生前のマックの姿。
この本については、庄司豊子及び河田朝子両先生の追悼集等と併せ、別の機会に紹介する予定。
 

お迎え、卒園式

 投稿者:火の鳥  投稿日:2011年 3月20日(日)15時33分3秒
編集済
  掲載誌名は不明ですが、昭和25年頃、ある雑誌に載った写真。
「待ちにまつたお母さんと一緒にお家へ」...
写真の”お母さん”は私の母(現在86歳)ですが、手をつないだ子は私ではありません。
たまたまその時、私は園で寝ていて起きてこなかったので、友だちのOちゃんが代役を勤めたとのこと。


下の2枚は、昭和28年卒園式当日の写真で、この他にも同時期の写真が数枚ありますが、
まだしまったままで、すぐには取り出せないのが残念です。
これは園庭から撮った写真で、子どもたちはまだ部屋の中にいるようです。
 

自己紹介

 投稿者:火の鳥  投稿日:2011年 3月20日(日)13時38分8秒
編集済
  私は昭和21年生。東京自由保育園設立の年(昭和22年5月)の入園生です。
以後、志村第三小学校入学までずっと自由保育園で育ちました。生粋の自由保育園っ子といってよいかもしれません。

HN火の鳥は、当時保育園で飼っていたオナガドリから採りました。そのオナガドリの名前が火の鳥だったのです。
火の鳥の名前は、当時の谷川正太郎園長がロシア民話から採ったものと、後に聞いています。
 

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